「達」まなび・碕達之助集
社屋にある書棚の蔵書『碕達之助集』を読んだ感想など。
(碕達之助/1885-1964 元通産大臣、東洋製罐株式会社の創業者)
(碕達之助/1885-1964 元通産大臣、東洋製罐株式会社の創業者)
2019/04/27 (17/52週) 碕さんゆかりの財布
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2019/04/20 (16/52週) 碕さんゆかりの絵皿
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2019/04/13 (15/52週) 碕さんゆかりの扇子
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2018/06/30 碕達之助さんのプロフィール
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・大阪の造り酒屋に生まれる。
・中学生の折、英語の先生から水産業の重要性を聞かされ、水産講習所へ入学。日露戦争で前線に食糧を送るため、学校を挙げて缶詰を手作業で供給し続ける。
・東洋水産会社に就職。とくにイワシのオイルサーディン製造に習熟。日露戦争後の国内缶詰業界が振るわない中、同社は事業を整理。
・アメリカの漁業会社に缶詰技術アドバイザーとしての期間職を得て、4年5ヶ月間の渡米。ロワー・カリフォルニアの僻地に丸太小屋のような工場建屋を作るところから体験。
・大正6年、東洋製罐を設立。 ・昭和9年、東洋鋼鈑が発足。
・昭和16年、満州重工業の副総裁として満州に赴任。
・終戦〜満州引き上げ時に現地の財界人として同胞婦女子50万人の帰還に尽力。 嗜眠性脳炎の難病から生還。
・昭和27年、東洋製罐を営みつつ電源開発会社の初代総裁に就任。佐久間ダム(静岡)、御母衣ダム(岐阜)、糠平ダム(北海道)を建設。
・昭和29年、亡き母親ゆかりの土地にある2寺院(大東市野崎:慈眼寺、高槻市柱本:興楽寺)に悲母観音像を建立。
・昭和30年、乞われて政界に進出。鳩山内閣で経済企画庁長官、岸内閣で通産大臣。
・昭和32年、アジア・アフリカ会議に日本代表で出席。
・ソ連・中国との友好親善に尽力。
・中学生の折、英語の先生から水産業の重要性を聞かされ、水産講習所へ入学。日露戦争で前線に食糧を送るため、学校を挙げて缶詰を手作業で供給し続ける。
・東洋水産会社に就職。とくにイワシのオイルサーディン製造に習熟。日露戦争後の国内缶詰業界が振るわない中、同社は事業を整理。
・アメリカの漁業会社に缶詰技術アドバイザーとしての期間職を得て、4年5ヶ月間の渡米。ロワー・カリフォルニアの僻地に丸太小屋のような工場建屋を作るところから体験。
・大正6年、東洋製罐を設立。 ・昭和9年、東洋鋼鈑が発足。
・昭和16年、満州重工業の副総裁として満州に赴任。
・終戦〜満州引き上げ時に現地の財界人として同胞婦女子50万人の帰還に尽力。 嗜眠性脳炎の難病から生還。
・昭和27年、東洋製罐を営みつつ電源開発会社の初代総裁に就任。佐久間ダム(静岡)、御母衣ダム(岐阜)、糠平ダム(北海道)を建設。
・昭和29年、亡き母親ゆかりの土地にある2寺院(大東市野崎:慈眼寺、高槻市柱本:興楽寺)に悲母観音像を建立。
・昭和30年、乞われて政界に進出。鳩山内閣で経済企画庁長官、岸内閣で通産大臣。
・昭和32年、アジア・アフリカ会議に日本代表で出席。
・ソ連・中国との友好親善に尽力。